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基本政策

『利権、しがらみ、隠ぺいのない公平で誠実な政治』に。
森友・加計問題 絶対許さない

  • 安倍総理と取り巻く総理の側近たちの退陣
  • 「原発ゼロ」
  • 10%への消費税引き上げは凍結する
  • ベーシックインカム導入で低所得層の可処分所得を増やす

地域から、誠実な政治の実現
地元の発展が幸福づくりのスタートです

私、おのづか勝俊は夢のある三市町の発展に地元の皆様のご意見を聞かせて頂きながら、全面協力をお誓いします。

所沢市は・・・成熟した都市ですが、子育てのしやすい環境の充実が必要です。近隣市でも当たり前の学校でのクーラー設置、学童保育の充実など教育現場の質の向上を早急に致します。
三芳町は・・・コンパクトな街ですが、平坦な台地の農地の緑の環境と開発のバランスを保ちながら、スマートICフル整備、企業誘致などで発展の可能性があるエリアといえます。
ふじみ野市(旧大井)は・・・閑静な住宅街が広がりますが、調整区域も広く有効活用が求められます。スマートICの交通安全の確保も致します。

プロフィール

おのづか勝俊(まさとし)

本籍所沢市
血液型A型
特技3歳から水泳を始め、中学・高校・大学と水泳部に所属
(大学時代は主将、合宿所の寮長)
好きな食べ物納豆、うどん、カレーライス
好きな音楽尾崎豊(お墓は所沢市にあります)、BOØWY、久石譲
家族構成妻と娘が2人

おのづかの歩み

1972年5月5日(子年の子どもの日)生まれ
1975年 幼年時代
3歳からスイミングスクール(後に北島康介さんも通う東京スイミングセンター)に。
練習は厳しく、水中メガネに涙をためて泳いだことも・・・(笑)
1979年 小学校時代
『機動戦士ガンダム』、『キャプテン』、『キン肉マン』、『キャプテン翼』、『北斗の拳』などアニメ・漫画に熱くなった小学生でした。
父親の書棚にある本を読むのが好きで、その中で戸川猪佐武著『小説吉田学校』を読んだのが、初めて政治というものを感じた時でした。
1985年 中学校時代
「自由の学府」と言われる立教中学校に入学。まさにその通りの学校でした。
水泳部に入部。水泳に明け暮れる毎日でした。3年時はキャプテンになり、学校は東京都大会で総合第2位になったのですが、私自身は、関東大会出場を逃し悔しい思いをしました。
毎年夏休みは、群馬県川場村にある特別養護老人ホームで、草むしり、窓拭きといったホームの掃除などのボランティア活動をしていました(ホームへは、高校生、大学生になっても行き続けました)。
1988年 高校時代
高校でも水泳部に入部。毎日、朝5時に起きての朝練。埼玉県大会で3位に入賞したほか、中学生の時に逃した関東大会に出場することも出来ました。
当時、環境問題に関心を持ち、ナショナルトラスト活動 「トトロのふるさと基金」に参加しました。また、学校の仲間と一緒に、アフリカのシエラレオネへの物資援助活動も行っていました。
ソウルオリンピックで鈴木大地に熱くなり、昭和が終わり、消費税が導入。世界では、天安門事件、ベルリンの壁崩壊、東欧革命、冷戦の終結、湾岸戦争の勃発。世の中が変わっていくのをビシビシと感じた時代でした。社会、日本、世界がどのようなルールや仕組みで動いているのか大学でしっかり学びたいと思い、法学部の国際・比較法学科へ進学を決めました。
1991年

大学でも体育会水泳部に入部。4年間、合宿所生活を送りました。6畳部屋に3人で生活。1年生の時は、合宿所の掃除(私はトイレ掃除担当でした)、食事係を行う中、朝練、昼練、午後練、夜練、1日に4回の練習、まさに「体育会」という生活でした。当時、立教大学水泳部は、体育推薦を行っていない大学では、最も強い水泳部と言われており、それを死守するため、監督・コーチ・OB・OG・現役部員が一丸となっていました。4年時は、主将を務めました。

一方、北岡伸一教授のゼミに1年時から入れて頂き、日本政治や外交について学び、大変刺激的な毎日を送りました。

大学に入学した年(91年)に、バブル経済が崩壊。銀行に就職した先輩が、日々、不良債権処理に奔走する姿。一方で、自民党政権が崩壊し、細川内閣が成立。学生ながらに日本の先行きに不安と期待を持ちながら、社会に出て自分は何をしたいのか、何をするべきか、何が出来るのかを日々、自問自答していました。

軍部と対立して2・26事件で暗殺された高橋是清に強く関心を持ち(4年生の時に書いたゼミ論文は『転換期をむかえた財政-高橋財政の限界-』でした)、「戦前と同じことが起こらないためには、高橋是清という稀代の財政家がいなくても、健全な財政金融政策が行われる必要がある。戦後、その役割を組織として担ったのが、中央銀行たる日本銀行だ」と考え、私も日銀で働きたいと強く思うようになりました。

1995年 日本銀行に入行

バブル崩壊から数年が経っていました。
日本経済の方向が明らかに下向きになり始めていた時代。それまで、「銀行は倒産しない」と言われていた時代から「銀行も倒産する時代」に変わったその年に入行しました。
私が日銀で初めて配属されたのは、金融機関の破綻処理を担当することとなった部署(営業局金融課)でした。コスモ信用組合、木津信用組合、兵庫銀行の破綻、それらはその後に続く、山一證券、北海道拓殖銀行、日本債券信用銀行、日本長期信用銀行などの破綻につながる端緒となりました。
この年は、阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件なども起こり、社会不安が広がった年でもありました。社会人として、少しでも世の中のために働きたいという思いだけは強く持っていました。

4月 旧営業局(現在の金融市場局・金融機構局)へ

旧営業局は、日銀の中で最もマーケットや金融機関に近い部署です。当時、金融界も、大変厳しい時代を迎えていました。金融の自由化が進む一方で、不良債権処理に追われる日々。金融再生法がわが国にまだ無かった時代に金融機関の破綻が本格化し、手探りで信用秩序維持に駆けずり回っていました。

12月 福島支店へ

北海道、岩手県に次ぐ大きさの福島県。赴任した当時、福島県経済は、全国に33ある日銀の支店の中で最も厳しい経済状況でした。一旦は、景気回復したのですが、’97年4月の消費税の引き上げにより、再度景気が悪化しました。
統計分析に加え、県内の多くの中小・零細企業、商店、団体の方々のところへ一軒一軒足を運び、実際の現場の声を聞いて、経済調査・分析を行いました。

1997年 7月 業務局へ

「政府の銀行」である日銀は、国の一般会計・特別会計・財政投融資など全てのお金の出し入れを行っています。その情報が集中する部署で約3年間働きました。当時は、財政投融資改革、郵便貯金の大量満期、また小渕首相の下、国の借金がドンドン増え、国の財政が大きく変化した時期と重なりました。国の借金が危機的状況と叫ばれたのはこの頃からで、財政に関する様々な調査・分析を行いました。

2000年 5月 大阪支店へ

当時、関西金融界は「金融火薬庫」と言われていました。私も、いくつもの金融機関の破綻処理の実務を取り仕切り、日銀特融の実行を担当しました。また、当時、大変厳しい状況にあった関西経済の景気調査・経済分析も行いました。福島支店の時と同様に多くの中小・零細企業、商店、団体の方々のところへ一軒一軒足を運び、実際の現場の厳しさを踏まえて日銀の政策判断の一翼を担う経験をしました。

2002年

大前研一氏が主宰する「一新塾」にて学び、大前氏より最優秀賞(大前賞)を授与される

4月 政策委員会室へ

日銀の中で最も政治に近い”国会渉外”という仕事を約4年間しました。金融政策、日本・世界経済の動向、将来の起こり得る様々な課題・問題などについて、日銀の立場で国会議員に説明をしたり、議論に参加したりしました。与野党の多くの国会議員と会い、様々なことを考えさせられました。

2006年

高校時代から続けている「トトロのふるさと財団(現・公益財団法人 トトロのふるさと基金)」で理事に就任(~2007年)

7月 国際局へ

日本と海外とのモノやお金の動きをみる国際収支について、企画・調査分析を行いました。日々の海外との取引の中で、資源の少ない日本が今後も如何にして繁栄を継続できるかを分析していました。また、企画役補佐という立場で組織のマネージメント(当時、部下は30名いました)を行ったり、国際会議にも出席して、各国の代表と議論したりしました。

2007年 日本銀行を退職

1,314名の応募者から民主党の国会議員公募に合格
6月に民主党埼玉県第8区総支部長就任

2008年 結婚
日銀を辞め、無職となっていた私とよく結婚をしてくれました。妻と妻のご両親にも感謝です。
2009年 8月の第45回衆議院議員総選挙において、皆さまより114,657票を賜り、小選挙区にて衆議院議員に初当選
1年目で財務金融委員会理事に就任し、ギリシャ財政危機に際して、衆議院からヨーロッパに派遣されたほか、民主党では、政策調査会長補佐として、細野豪志政策調査会長を支える
2010年第一子誕生
2012年12月の総選挙において、皆さまより46,394票を賜るも、落選
2013年第二子誕生
改めて政策の勉強が必要と考え、早稲田大学大学院で公共経営政策を研究
2014年12月の総選挙において、皆さまより61,711票を賜るも、再度落選
2015年東京大学EMP修了
現在捲土重来を期して、地元を歩き、徹底して出直し中

アクセス

所在地〒359-1111
所沢市緑町4-32-15
TEL(04)2997-8878
FAX(04)2925-0102

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