おのづか勝俊 所沢市長(元・衆議院議員)
- 1972年(昭和47年)5月5日(こどもの日)生、52歳。親子4人で所沢市に在住
- 所沢市立上新井小学校PTA元会長
- 所沢中央文化幼稚園父母の会元会長
- 立教中・高・大学卒業、早稲田大学大学院(修士号取得)
- 東京大学EMP修了
- 日本銀行12年間勤務(政策委員会室、国際局他)
- トトロのふるさと基金の元理事
- 政策学校一新塾にて大前賞(最優秀賞)受賞
- 元衆議院議員(財務金融委員会理事、予算委員他)
- 大学院の教員として、『ブロックチェーン時代の金融』の講義を受け持つ
- 3歳から水泳を始め、中学、高校、大学と体育会水泳部。中学、大学で主将、 合宿所の寮長(高校時代、埼玉県大会でバタフライ3位入賞)
- 尊敬する人物は高橋是清
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その他、保有資格は、
防災士・防災危機管理者/健康マスター・エキスパート/image.pngSDGsアドバイザー/観光プランナー
なぜ政治家を目指したか?
2007年(平成19年)6月15日、私は日本銀行を退職しました。なぜ自民党ではなく民主党を選んだのか。それは政権交代できる政党を作りたいと思ったからでした。
当時の民主党は経験不足のメンバが多く、現実的でない政策について空疎な議論を続けており、政権を担い日本を改革するには力不足。
しかし、そのような状態では、与党は緊張感を持てません。その結果、日本の政治は停滞し、国民の皆さまの暮らしはなかなか良くならなかったのです。だから私は民主党を選びました。日銀を辞めて自民党に入るのではなく、いばらの道である民主党を選んだのです。それは、政権交代をになえる野党を作り出さない限り、日本の政治に未来はない、そう思ったからでした。
政権を担わせて頂いたのに・・・
2009年(平成21年)に政権を担うこととなった民主党ですが、次の選挙では政権を譲ることとなりました。民主党にご期待いただいた皆さまには、本当に申し訳ない気持ちで一杯です。
しかしながら、国民の皆さまとともにある政治を行わないと、すぐに政権の座から転げ落ちてしまうという得がたい教訓を、与えて頂きました。だから私は、この8年間、徹底して地元を歩き、勉強を重ね、政策を訴えてまいりました。今度チャンスを与えて頂いた時には、ご期待を裏切ることなく、もっと素晴らしい日本が作れるよう自己研鑽を積んできたのです。
日本銀行出身の数少ない政治家として、皆さまの生活を本当に豊かにできる政治を作り上げてまいりますので、どうぞよろしくお願い申し上げます。
漫画で見るおのづか勝俊
政治家を志した理由
「なぜ、日銀の銀行マンが政治家になったの?」
そんなご質問をよくいただきます。 確かに「政府の銀行」たる日銀にいれば将来は安泰。それなのに本当になれるかもわからない国会議員を目指して政治家になろうなんて、一体全体どうして?そんな疑問を持つ方が多いようなのです。 私も最初から政治家になりたいと思っていたわけではありません。日銀に入行したときには、日銀を辞めるつもりなど露ほども考えていませんでした。 そんな私がなぜ政治家になったのか?政治家をめざした当時を振り返りながら、お話ししたいと思います。資金難を苦に自殺する経営者
何もできない無力な自分を痛感した2年間でした
日銀では、東京の本店だけでなく地方の支店勤務も経験したのですが、その中で最も印象に残っているのが2000年に赴任した大阪支店での2年間です。 当時、景気は全国的に悪かったのですが、関西の金融界は特に厳しい状況でした。私はそんな中、関西の景気調査や経済分析を行うために多くの中小・零細企業、商店、団体の方々のところへ一軒一軒足を運んだのですが・・・。中小企業の社長さんのご苦労、苦悩を目の当たりにする毎日。資金難を苦にして自殺する社長さんも・・・胸が潰れるような思いでした。 そういう方たちを目の前にして、何もできない自分。なんでこんなことになるんだという憤り。憤りながらも、日銀のような潰れない組織で働き、安全なところにいる自分は何なんだ?という自分への疑問と無力感。 「自分に何ができるのだろうか?」 「どうしたら苦しんでいる方たちを、楽にしてさしあげられるのだろうか?」 自問自答する毎日。でも、私の中で明確な答えは見つけることができませんでした。日銀で目にした残念な政治
日銀で国会担当を4年間つとめました
その後戻った東京の本店で、私は「政策委員会室」へ配属され、約4年間、国会担当という仕事に従事。その中で与野党の多くの国会議員の方々とお会いし、議員の方たちの仕事を垣間見る機会に恵まれました。でも私がそこで見たもの。それは「残念」としか言いようがない政治だったのです。 先ほど申し上げたとおり国会担当の前は大阪におりましたので、自殺してしまう中小企業の社長さんもいらっしゃるほど、厳しい経済状況だったのをこの目で見ていました。私は政治家はそういう人たちを救うために日夜努力をなさっていると信じていました。厳しい経済状況を何とか変えるために、寝ずに考えているような方たちの集団が国会議員だと思っていたのです。 でも、現実はそうではありませんでした。 国会担当だった私が見たのは、政策は官僚に任せきりで、会議といってもたいしたことはやっていない、そんな国会議員たちの体たらくでした。ショックでした。なぜこんなことが起こっているんだと。愕然としました。 これは当時政権を担っていた自民党だけに限りません。当時の民主党も他の政党もみんな同じようなものでした。自民党の他に政権を担える政党をつくること
政権を担える政党を自民党の他につくる!私の決意でした
なぜこんなに「残念な政治」がはびこってしまうのか。 私なりに出した答えは、政権与党である自民党の向こうを張れる、自民党を脅かす政党が他にないからだ、というものでした。 当時(2002~2006年頃)の自民党は、長期政権で、大変な人気を誇っていました。しかも野党の力は弱く、政権交代など起こりそうもありません。自民党が何をやっても、どんな失策をしても、取って代われるほどの政党がいない。だから「残念な政治」をしていても大丈夫。そんな緊張感がまったくない状態に陥っているのではないかと思ったのです。 この状態を放置せず、政治を良い方向へ持っていくためには、自民党の向こうを張れる政党が存在しないとだめだ。政権を担うことが可能な政党を作り上げなければいけない。 私はそう考え、当時最も可能性のあった民主党に馳せ参じ、民主党の党員として政治家を目指すことにしたのです。政権を担わせていただいたのに・・・
2009年(平成21年)に政権を担うこととなった民主党ですが、次の選挙では政権を譲ることとなりました。民主党にご期待いただいた皆さまには、本当に申し訳ない気持ちで一杯です。 しかしながら、国民の皆さまとともにある政治を行わないと、すぐに政権の座から転げ落ちてしまうという得がたい教訓を、与えて頂きました。だから私は、この8年間、徹底して地元を歩き、勉強を重ね、政策を訴えてまいりました。今度チャンスを与えて頂いた時には、ご期待を裏切ることなく、もっと素晴らしい日本が作れるよう自己研鑽を積んでまいりました。日銀での経験を国政の場で活かしたい
今この時だから。私におまかせ下さい。日銀出身のおのづかです
日銀に入行した当時は辞めることなど露ほども考えていませんでした。しかし、大阪支店での経験、そして国会担当の際に見た政治の実情。 自分にできることは何か?その自問の答えは、- 政治家になって自民党の向こうを張れる、政権を担える政党を作りあげること
- 日銀での経験を国政に活かすこと
おのづか勝俊の決意
日銀で見た「唖然」とする政治家の姿
私は、大学卒業後、12年間、日本銀行に勤めていました。朝6時台に家を出て満員電車に乗り、帰宅は毎日0時過ぎという生活。 日銀では、零細企業から大企業まで一軒一軒足を運んで経済分析、金融機関の破綻処理、国の財政調査、国際収支の企画・調査分析、日銀を代表して国会議員との渉外、国際会議への出席などを行いました。 私が日銀に勤めていた12年間、日本中で零細企業から大企業まで、皆さまが死にものぐるいで働いているにも拘らず、企業の倒産が相次ぎ、更には自殺を選ぶという悔やみきれない悲劇の連続。 本来、個人や企業を支えるはずの金融機関は不良債権処理に追われ、多くが破綻。破綻しなくても合併・統合により、次から次へと名前が変わり、個人や企業に構っている余裕がない。「何がどうなってしまっているのか」怒りにも似た思いで私は働いていました。
2000年~02年、私は大阪支店に配属されました。
当時の関西経済は、底が抜けそうな危機的状況。全国平均より、ダントツに高い失業率、金融機関が連鎖破綻してもおかしくない「金融火薬庫」と言われた地域でした。
どうすれば関西経済を、日本経済を蘇らせることが出来るのか、模索する毎日。日銀が、ゼロ金利政策、量的緩和政策などいろいろ打ち出してみても先が見えない。そのような時期、再び私は東京の本店に呼び戻されます。
本店での仕事は、日銀を代表して、国会議員と渉外を行うというものでした。これまであまり縁のなかった国会議員、不安の反面、国会議員ならばこの閉塞している日本に新しいヴィジョンを示してくれるのではないか、その期待を抱き新しい仕事を始めました。
しかし、その期待は、あっさり裏切られ、「唖然」とする毎日が続いたのです。
官僚に任せきりの政治・・・
新しい仕事での私の一日の始まりは、朝6時25分の小手指駅発の西武池袋線に乗って、永田町の自民党本部に行き、「部会」といわれる会議に8時から出席することでした。 そして、その「部会」で私が見たものは、官僚の作った法律案を右から左にそのまま承認している国会議員の姿。 本来、会議とは、意見を出し合って提案されたものについて、より良い結論を導き出すものです。しかし、この「部会」では、提案されたもの(=官僚の作った法律案)がそのまま何も変わることなく結論となって会議が終わるのです。 目を疑う信じられないことの連続。国民の皆さまから選ばれて、本来ならば官僚をリードして日本国の未来を考えるべき国会議員が、官僚の作った法律案の「単なる承認機関」に過ぎなかったのです。
官僚は確かに優秀です。しかし、その優秀な能力は、「現状維持・現状継続」ということに長けているのであり、「危機的経済状況をどう打開するのか」、「日本の未来をどう切り開くのか」という新たなヴィジョンを示すことは、本来、官僚には求められていません。
だからこそ国会議員がリーダーシップを取る必要があるのに、その国会議員が、官僚の承認機関になり下がっている。日本の未来を最も考えなければいけない国会議員が「思考停止」している姿を見て、私は愕然としたのです。
国民の皆さまの生活は危機的状況、自らの命を断つ人が絶えないというのに・・・。このままでは、日本経済どころか日本が持たない。日本に未来がない。
民主党という選択と決断
当時、小泉首相が、「自民党をぶっ壊す」との言葉の下、「改革」を推し進めているように見えました。しかし、自民党の内部は、全く変わっていない姿を私は見続けました。自民党は、ただ「改革」という言葉に自己満足をしているだけで、実態は中途半端な「変更」を行っているに過ぎません。 「もはや自民党には、改革は出来ない」。 如何に名医であろうとも自らのお腹にメスを入れて手術することは出来ません。ましてや50年の長きにわたり「官僚丸投げ」というシステムにどっぷり浸かり、しがらみでガンジガラメになっている自民党にそもそも改革は無理だったのかもしれません。「自民党には出来ない。しかしこのままでは日本が壊れてしまう。どうすればいいのか」。その時、私が考え抜いて出した結論が、「民主党」です。 国会渉外の仕事で私は、民主党の皆さまとも議論をする機会がありました。 自民党に比べ歴史もない。政権を担った経験もない。私の目から見ても、「民主党、大丈夫なのか」と思うこともありました。
しかし、仮に民主党がダメだとしても、自民党に任せていいのか。私の答えは「NO」です。それは日本を衰退に導く道でしかありません。
ならば、民主党をより良い政党として、私たち国民の期待に応えられる政党に、自民党の向こうを張れる政党に、そして政権を担えるだけの政党に変えることこそが、日本の未来を明るくするための最良の方法と考えたのです。
「民主党をダメだ」というのは簡単です。しかし、仮にダメならば、その「ダメ政党」を「良き政党」に変えること、それこそ今、行わなければならないと考えたのです。
決意
私の部屋の壁には、日銀に勤め始めた時に掲げた日本地図があります。私はその地図の前で、日本のために何をするべきか、何が出来るか、何をしてきたか、日々、自問自答を繰り返し、日銀で働くことこそ日本のためになると考えてきました。 しかし、国会議員との渉外の仕事を続ける中で、「民主党をより良い政党として、政権を担える政党にする」、それこそが、私たち国民、一人ひとりの生活を良くしていく、日本の未来を明るくするという考えに至り、私は日銀を辞め、35歳で政治の世界に飛び込むことを決意しました。 向こう見ずは覚悟の上です。しかし、覚悟を決めたからには何が何でも政治を変えて、日本に明るい未来を取り戻したいのです。命懸けです。 私は、100年後、200年後の未来も「日本はいい国」であり続けて欲しいのです。 このままの日本を未来に残す訳にはいかないのです。 なんとしても頑張り抜きます!おのづかの歩み
- 1972年
- 5月5日 (子年 の 子どもの日) 生まれ
- 1975年
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幼年時代
3歳からスイミングスクール(後に北島康介さんも通う東京スイミングセンター)に。 練習は厳しく、水中メガネに涙をためて泳いだことも・・・(笑)
- 1979年
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小学校時代
『機動戦士ガンダム』、『キャプテン』、『キン肉マン』、『キャプテン翼』、『北斗の拳』などアニメ・漫画に熱くなった小学生でした。 父親の書棚にある本を読むのが好きで、その中で戸川猪佐武著『小説吉田学校』を読んだのが、初めて政治というものを感じた時でした。
- 1985年
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中学校時代
「自由の学府」と言われる立教中学校に入学。まさにその通りの学校でした。 水泳部に入部。水泳に明け暮れる毎日でした。3年時はキャプテンになり、学校は東京都大会で総合第2位になったのですが、私自身は、関東大会出場を逃し悔しい思いをしました。 毎年夏休みは、群馬県川場村にある特別養護老人ホームで、草むしり、窓拭きといったホームの掃除などのボランティア活動をしていました(ホームへは、高校生、大学生になっても行き続けました)。
- 1988年
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高校時代
高校でも水泳部に入部。毎日、朝5時に起きての朝練。埼玉県大会で3位に入賞したほか、中学生の時に逃した関東大会に出場することも出来ました。 当時、環境問題に関心を持ち、ナショナルトラスト活動 「トトロのふるさと基金」に参加しました。また、学校の仲間と一緒に、アフリカのシエラレオネへの物資援助活動も行っていました。 ソウルオリンピックで金メダルを獲得した鈴木大地選手に熱くなり、昭和が終わり、消費税が導入。世界では、天安門事件、ベルリンの壁崩壊、東欧革命、冷戦の終結、湾岸戦争の勃発。世の中が変わっていくのをビシビシと感じた時代でした。社会、日本、世界がどのようなルールや仕組みで動いているのか大学でしっかり学びたいと思い、法学部の国際・比較法学科へ進学を決めました。
- 1991年
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大学時代
大学でも体育会水泳部に入部。4年間、合宿所生活を送りました。6畳部屋に3人で生活。1年生の時は、合宿所の掃除(私はトイレ掃除担当でした)、食事係を行う中、朝練、昼練、午後練、夜練、1日に4回の練習、まさに「体育会」という生活でした。当時、立教大学水泳部は、体育推薦を行っていない大学では、最も強い水泳部と言われており、それを死守するため、監督・コーチ・OB・OG・現役部員が一丸となっていました。4年時は、主将を務めました。一方、北岡伸一教授(現・国際協力機構理事長)のゼミに1年時から入れて頂き、日本政治や外交について学び、大変刺激的な毎日を送りました。 大学に入学した年(1991年)に、バブル経済が崩壊。銀行に就職した先輩が、日々、不良債権処理に奔走する姿。一方で、自民党政権が崩壊し、細川内閣が成立。学生ながらに日本の先行きに不安と期待を持ちながら、社会に出て自分は何をしたいのか、何をするべきか、何が出来るのかを日々、自問自答していました。軍部と対立して2・26事件で暗殺された高橋是清に強く関心を持ち(卒業時に書いたゼミ論文は『転換期をむかえた財政-高橋財政の限界-』でした)、「戦前と同じことが起こらないためには、高橋是清という稀代の財政家がいなくても、健全な財政金融政策が行われる必要がある。戦後、その役割を組織として担ったのが、中央銀行たる日本銀行だ」と考え、私も日銀で働きたいと強く思うようになりました。
- 1995年
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日本銀行に入行
バブル経済の崩壊から4年が経っていました。 日本経済の方向が明らかに下向きになり始めていた時代。それまで、「銀行は倒産しない」と言われていた時代から「銀行も倒産する時代」に変わったその年に入行しました。 私が日銀で初めて配属されたのは、金融機関の破綻処理を担当することとなった部署(営業局金融課)でした。コスモ信用組合、木津信用組合、兵庫銀行の破綻、それらはその後に続く、山一證券、北海道拓殖銀行、日本債券信用銀行、日本長期信用銀行などの破綻につながる端緒となりました。 この年は、阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件なども起こり、社会不安が広がった年でもありました。社会人として、少しでも世の中のために働きたいという思いだけは強く持っていました。4月 旧営業局(現在の金融市場局・金融機構局)へ
旧営業局は、日銀の中で最もマーケットや金融機関に近い部署です。当時、金融界も、大変厳しい時代を迎えていました。金融の自由化が進む一方で、不良債権処理に追われる日々。金融再生法がわが国にまだ無かった時代に金融機関の破綻が本格化し、手探りで信用秩序維持に駆けずり回っていました。12月 福島支店へ
北海道、岩手県に次ぐ大きさの福島県。赴任した当時、福島県経済は、全国に33ある日銀の支店の中で最も厳しい経済状況でした。一旦は、景気回復したのですが、’97年4月の消費税の引き上げにより、再度景気が悪化しました。 統計分析に加え、県内の多くの中小・零細企業、商店、団体の方々のところへ一軒一軒足を運び、実際の現場の声を聞いて、経済調査・分析を行いました。
- 1997年
-
7月 業務局へ
「政府の銀行」である日銀は、国の一般会計・特別会計・財政投融資など全てのお金の出し入れを行っています。その情報が集中する部署で約3年間働きました。当時は、財政投融資改革、郵便貯金の大量満期、国債の増発など、国の財政が大きく変化した時期と重なりました。国の借金が危機的状況と叫ばれたのはこの頃からで、財政に関する様々な調査・分析を行いました。
- 2000年
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5月 大阪支店へ
当時、関西金融界は「金融火薬庫」と言われていました。私も、いくつもの金融機関の破綻処理の実務を取り仕切り、日銀特融の実行を担当しました。また、当時、大変厳しい状況にあった関西経済の景気調査・経済分析も行いました。福島支店の時と同様に多くの中小・零細企業、商店、団体の方々のところへ一軒一軒足を運び、実際の現場の厳しさを踏まえて日銀の政策判断の一翼を担う経験をしました。
- 2002年
- 大前研一氏が主宰する「一新塾」にて学び、大前氏より最優秀賞(大前賞)を授与される
4月 政策委員会室へ
日銀の中で最も政治に近い”国会渉外”という仕事を約4年間しました。金融政策、日本・世界経済の動向、将来の起こり得る様々な課題・問題などについて、日銀の立場で国会議員に説明をしたり、議論に参加したりしました。与野党の多くの国会議員と会い、様々なことを考えさせられました。
- 2006年
- 高校時代から続けている「トトロのふるさと財団(現・公益財団法人 トトロのふるさと基金)」で理事に就任(~2007年)
7月 国際局へ
日本と海外とのモノやお金の動きをみる国際収支について、企画・調査分析を行いました。日々の海外との取引の中で、資源の少ない日本が今後も如何にして繁栄を継続できるかを分析していました。また、企画役補佐という立場で組織のマネージメント(当時、部下は30名いました)を行ったり、国際会議にも出席して、各国の代表と議論したりしました。
- 2007年
-
日本銀行を退職以後政治家を志し、2年2か月の浪人生活
- 1,314名の応募者から民主党の国会議員公募に合格
- 6月に民主党埼玉県第8区総支部長就任
- 2008年
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結婚
日銀を辞め、無職となっていた私とよく結婚をしてくれました。妻と妻のご両親に感謝です。
- 2009年
-
8月の第45回衆議院議員総選挙において、皆さまより114,657票を賜り、小選挙区にて衆議院議員に初当選 1年目で財務金融委員会理事に就任し、ギリシャ財政危機に際して、衆議院からヨーロッパに派遣されたほか、民主党では、政策調査会長補佐として、細野豪志政策調査会長を支える
- 2010年
- 第一子誕生
- 2012年
- 12月の総選挙において、皆さまより46,394票を賜るも、落選
- 2013年
- 第二子誕生 改めて政策の勉強が必要と考え、早稲田大学大学院で公共経営政策を研究,394票を賜るも、落選
- 2014年
- 12月の総選挙において、皆さまより61,711票を賜るも、再度落選
- 2015年
- 東京大学EMP修了
- 現在
- 捲土重来を期して、地元を歩き、徹底して出直し中